昭和42年8月24日 朝の御理解
「おかげは和賀心にあり」と。「おかげは和賀心にあり」と、けれども和賀心にならなくてもおかげは受けております。和賀心と云うのは勿論和らぎ、喜ぶ心。和らぎよろこぶ心にならなければおかげは受けられんと云うのじゃあない。その証拠にはみんなが和らぎよろこぶ心にならならんても信心にならなくても、何事にも信心になれよと仰っておる信心にならなくても、おかげは受けておると云うことです。
ですから、必ずしもおかげを受けると云うことは、神様が仰るように和らぎよろこぶ心が出来んでもおかげは受けられると云うこと。けれども和らぎよろこぶ心で受けたおかげなら絶対のものだと。
昨日筑水連合会幹部の集いが久留米でありました。ここからも角さん、山田?さん、久富さんあたりがおいでになられたらしい。中にお取次の絶対性と云うことについて「 」さんが話されたと聞いてお取次を頂くと、お取次頂いての絶対性。常識打破だと云うようなことを話され、その内容はどういう風に例えたか分かりませんけれども、確かにお取次を頂くことは絶対のもの、お取次を頂いてお願いをする。これはもう例えばですね、お取次を頂いてお願いをさせて頂いたら自分の思うようになると云うことじゃあないです。右になっても左になっても金光大神のお取次を頂いて金光大神のお祈りの中にその事が色々まあ形になって現れて來るのでございます。だから、もうそのおかげの絶対性とも言われる訳です。
けれどもそれは、お取次を頂いたら絶対だと私共の思い通りになるという意味ではないと云うことを、よくお取次を頂いておけば安心だと、私は神様と他の信心と違うのはそのへんだと思う。
お取次を頂いたら確かに安心なけれど、自分の思う通りになると云う意味と云うことだけではないと云うこと。よくお取次を頂いておけば安心だと、しかし他の神様と、他の信心と違うのはそのへんだと思うですね。お取次を頂けてお取次を頂いたら確かに安心なのですけれども、自分の思うようになると云うことではない。場合によると自分の思うとおりの反対になって行く様な場合もあるけれどもです、お取次を頂いたら最後、それは本当の意味のおかげになって行きよるようなものだと云うこと。
お取次の絶対性、常識打破これは私が言っておる何時ものような超合理的と云うような意味のことであると思います。
信心は常識では出来ません。だから一見非常識のようにも見えます。常識が無いとじゃろうかというように見えます。だから、普通で言う常識、まあ信心はいけません。だから普通の常識でまあ云うならば、合理的という、合理的にばかり言ったんではまあ、例えて云うならばお参りをさせて頂く、お取次を頂いたら拝みもせずに帰って行く。同じ様におかげは例えば、受けられると致しましても、例えば五時からお参りして六時十五分まで御祈念させて貰う、馬鹿らしいごとある。そりゃあ六時頃参ってきて御理解だけ頂かれる。それが同じようであるようだけれど、違ってくる。これは常識をはずれなければいけません。常識と云うものは信心をすれば打破して行かなければならん。 より合理的な、いわゆる合理的な理屈を得た信心だけではおかげは頂けない。信心して例えば病気をして医者だ薬だという合理的な養生をするけれども、その非常識的と、まるっきり常識がないような、例えば私が今度目が悪かった。
お医者さんから云うたら、小野先生もそれを言うておられましたが、熊本の?先生なんかは電話で何回も注告された。
先生御神酒もおかげ頂きなさるばってん、御神酒だけをさすとはやめなさいませ。目に悪いと云うわけなんです、常識のあるもんだったらとてもできることではない。いうなら毒になる。ところがどういう素晴らしゆう効く目薬であるよりも、御神酒が一番素晴らしい効果があると云うことは、常識を打破しなければ出来ることではない。云うなら合理的ではないけれども、超合理的のおかげが受けられる。いわば奇跡とか枯木に花とか、そのようなおかげを頂く場合は必ずそれなのです。常識を超えておる。合理的なものでなくて普通から見たら、なんという信心とは不合理的なことだと云うようなことである。けれども決して不合理ではない。又非常識でもない。超常識である。超合理的だと云う、そういう意味のことを私はまあ、言われたものではないだろうかと思います。
お取次の絶対性、このへんが分からせて貰うとですね、夕べの御理解ではない、最近の御理解ではないけれど、「神は吾が本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや」というような信心が分かって來るとです、それは叩かれてもおかげであり、撫でられてもおかげである。可愛いからこそ撫でるのでもありゃあ、可愛いからこそ叩くのでもあるのですから、そういうことをお取次頂いて願うて行くのですから結果はどうでありましても、それはおかげなのです。そこんところのおかげをおかげと分からせて貰うたところに、どういうことになるかと云うと、お礼の生活。おかげと分かるから有難いのである。その有難いと思うから和賀心になれる。和賀心になれるからおかげは和賀心にあると仰るような最高のおかげは和賀心にあると仰る。 おかげと云うのは最高のおかげだと、ね。その証拠には、和賀心にならなくてもおかげは受けているでしょうが。この位のおかげならば、ね、丁度云うならばお茶を入れる様なものではなかろうか。玉露なんか入れます時には玉露、お茶そのものは同じなんです。誰が入れても、例えば八女茶のお茶を一番一級品のお茶を五人の者が五人が貰う。ところがです、白湯加減一つでそのお茶が美味しかったり美味しく無かったりなるのですから、と云うてなら、お茶はどうなのかというとお茶は出てる。そりゃあ苦いお茶が出たり、濃いすぎたり薄かったり、もうそれこそ口にもつようなね、なかさにゃひっこみたくなるごたる味わいのお茶も出るのです。だから教祖様が仰る、和賀心と云うのはですね、同じなのです。お茶葉は。だからその湯のさまし加減とか入れ加減とか、時間の具合いと云ったようなものをです、ということを和賀心と仰る。
和賀心で頂くおかげだったら、それこそ口に持つような、そういう自分の心の中に響いて來る様なものを、どうかと云うと和賀心に神様が成程ござるんだなあと我と我が心を拝みたいような心、有難いことじゃなあ、勿体ないことじゃなあと、本当に和賀心が自分で自分の心を拝みたいような心が、でけてくるかと思うと自分で自分が浅ましい、自分で自分がいやになる。同じこと、それでもおかげは受けておる。けれどもそれは、苦いお茶が出るか、薄いお茶で出るか、それこそ口の中にふくんでおきたいような素晴らしい味わいのお茶に出るかと云うこと。お茶そのものは同じ。そうでしょうが。
そこでお互いが有難い雰囲気とか、ね、例えばこうやって朝の有難い御祈念の雰囲気に浸らせて行くと云うことによって和賀心が育てられて行く、喜びが頂ける。信心の稽古をさせて頂いて、体験の上から色々合点することが出来る。
お話を聞いて自分の心が開ける、ね、だから私は有難い。よりよいおかげが頂ける。けれども、これは限りがない。よりよいおかげで、だから如何に私共が和賀心を目指さなければいけないかと、和らぎよろこぶ心にならなければいけないか。折角お茶が一様に頂いておるのだから、同じものを。こちら湯加減一つ心掛け一つで極楽にもなりゃ、地獄にもなりお参り頂くおかげで も、それこそぴんからきりまでのおかげを頂けるのですから、おかげを頂きたい。 何時でも申しますように同じままになると云うてもおにぎりなんかでままになる人もありゃあ、親子どんぶりでお腹一ぱいになる人もある。代用食なら代用食で腹いっぱいになるともいる。腹いっぱいと云うことにおいては変わらんでも五百円も千円もするような会席なら会席でと云うご百味の御食というようなお馳走を頂かして貰いながらままになるおかげも頂ける。出来るならその最高のおかげを頂きたい、最高の味わいのお茶を頂きたいというところにです、私は願いを置かないと自分が改まろうともしなければ、磨こうともしない。信心修行もおろそかになる。何故っておかげは和賀心にあると仰るけれども、和賀心にならんでもおかげを受けられておる事実がある。だからもう腹いっぱいになりゃすりゃよかというだけの信心ならそれで良かろう。けれども最高のお茶でさえすりゃよかというと云うのなら苦かっても渋かっても、それでよかりゃよいのだけれども本当に口持つような、われとわが心が拝めるような心を拝めるような心を頂いてその中に頂くところのおかげがあると云うおかげを頂きたいと願わなければ、神様の喜んで頂くような信心とは云えません。でけません。出来はせんけれども、願いはそこに置かなければいけません。でなかったら、信心のいわゆるぎりぎりのものはないかと云うと、信心とは「本心の玉を磨くものぞや」、やはり信心とは日々の改まりが第一だと仰るように改まると云うことにも精進しない、磨くことにも精進しない。十年前のあなたも十年後の今日のあなたもさほど変わっていないとするならばです、ね、磨かんなりに和賀心になることを勤めんなりにおかげを受けて来ただけのこと、この心におかげが頂けておるんだと自分で思われるようにその自分の心の喜びの度合に応じてです、いわばよりよい味わいのおかげと云うおかげが受けられるのでございます。皆さん、そういうような信心をさせて頂くうちに段々お取次の絶対性、御取次を頂いたら絶対のもの、絶対信と云うことを申します。
神様を絶対に信ずる。金光様の信心により絶対信ずると云うことはどういうことかというとお取次の働きを絶対信ずると云うことである。それは自分の右左と云ったような自分の思いとは違う。そこんところを信心させて貰うとき、お取次を頂かなければおられんのであり、いよいよ「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」と仰るように今月今日こうやってお願いして頂いてるおとことでも、自分の心の中に、どうぞ和らぎよろこぶ心を頂かせて下さい、その為の修行をさせて貰わせて頂くと云うことに成って來るんですね。
皆さん、同じ云うならば、お茶を頂いておるようなものですから、自分の心の湯加減一つで渋くも苦くも味わいのあるものにも出来るのですから、そこんところを稽古すると云うなら稽古しなければいけないのではないでしょうかね。 どうぞ。